
※登場人物は全て仮名です。
29歳。独身。趣味は手帳デコ。
自己紹介にするには少し地味だけど、週末の午後を手帳と過ごす時間がいちばん好きだ。マスキングテープを集めて、シールを貼って、ペンの色を選んで。誰にも見せない日記帳が、世界でいちばんかわいくなる瞬間がある。
そう、わたしは文具オタクを自称していた。
「自称」というところに、すでに伏線が張られている。
話は3ヶ月前に遡る。
インスタのストーリーズを流し見していたとき、やたら再生数の多い動画が引っかかった。手帳にシールを貼るだけの動画。たった15秒。BGMはゆるいシティポップ。
再生数、28万。
「なんで?」
思わず声に出た。隣で夫がうどんをすすっていたので「どした」と聞かれたが、「なんでもない」と答えた。夫にはまだわたしの文具愛の深さを全部知られていない。知られたら手帳コーナーの棚を没収されそうで怖い。
コメント欄には「うるちゅる最高」「これ全種類ほしい」「沼すぎて泣ける」が並んでいた。
うるちゅる。
謎の言葉だった。でもわたしは深く調べなかった。文具オタクのくせに。ここが最初の敗因だ。
その翌週、仕事帰りに文具屋に寄った。
特に目的はなかった。強いていえば「新しいマスキングテープが入荷してないか確認する」という名目の、ただの現実逃避だ。残業で疲れた体に、文具屋の蛍光灯は優しい。棚に並んだカラフルな商品たちが「よく来たね」と言ってくれる気がする。
完全に気のせいだけど。
棚の一角に、見慣れないシールのコーナーがあった。
「うるちゅるポップシール」という小さなポップが立っていた。
あ、これがそれか。
キラキラしている。ぷっくりしている。色がポップだ。かわいい。
深く考えずにカゴに入れた。
合計3種類、1,200円。
文具オタクとしての購買判断が「なんとなくかわいいから」だったことを、この時点では全く恥じていなかった。
家に帰って、さっそく手帳に貼った。
ページの右下に、ぽん。
「かわいい」
それだけだった。
写真を撮った。インスタに上げた。いつもと同じくらいのいいねがついた。「なんか地味だな」とうっすら思いながら、ストーリーズに流した。そのまま忘れた。
ここで少し脱線する。
わたしには「かわいいものを使いこなせてる風に振る舞う」という悪い癖がある。中学生のとき、みんなが持っていたシャーペンを買って、自分なりに使いこなしてるつもりで過ごしたことがある。でも実はそのシャーペンには「振ると芯が出る機能」があって、クラスで最後に気づいたのがわたしだった。
話を戻す。
要するに、わたしはうるちゅるポップシールを「ただ貼るもの」だと思っていた。3ヶ月間ずっと。
事件は、ある火曜日の昼休みに起きた。
「先輩、それ手帳ですか?見せてください」
後輩の田中さつきが声をかけてきた。22歳。入社2年目。文具にそこまで詳しくないと思っていた。思っていた。
手帳を見せると、さつきが目を細めた。
「あ、うるちゅるポップシール貼ってるじゃないですか」
「そう、かわいいでしょ」
「でも…もったいないですね」
もったいない。
その言葉が、空気をちょっとだけ変えた。
「どういうこと?」
さつきはスマホを取り出して、TikTokを開いた。
動画の中で、誰かがうるちゅるポップシールを貼った手帳を、窓際の光にかざしていた。
次の瞬間。
シールが、とろけた。
いや、とろけたわけじゃない。でもそう見えた。光が当たった瞬間に、ぷるんと透明感が出て、色がじわっと変わって、ゼリーみたいな艶が生まれた。カメラが少し動くたびに、シールの表情がまるで別物になっていく。
「光を当てて撮るんです。角度で全然違うので」
わたしは22秒間、無言だった。
22秒というのは体感で、実際は3秒だったかもしれない。
でも体感では22秒だった。
その夜、自宅に帰って、スタンドライトを引っ張り出した。
手帳を開く。うるちゅるポップシールのページ。
光を当てる。
……うわ。
全然違う。
さっきまで「なんか地味だな」と思っていたシールが、急に別の顔を見せた。とろっとした透明感。ぷるんと盛り上がった質感。光の角度をちょっと変えるだけで、色がゆっくり動くように見える。
これか。
28万再生の意味が、やっと腑に落ちた。
「かわいいものを使いこなせてる風に振る舞う」悪い癖が、また牙を剥いた瞬間だった。3ヶ月間、わたしはうるちゅるポップシールを正面から蛍光灯の下で貼って、写真を撮って、「なんか地味」と言っていた。
シールは何も悪くない。
全部わたしのせいだ。
翌朝、窓際で手帳を開いた。
朝の自然光はやわらかくて、うるちゅるポップシールとの相性が異常にいい。光の角度をちょっとずらしながら、スマホを構える。シールがとろけて見えるポジションを探す。
撮れた写真は、今までの手帳写真と全然違った。
「なんかキラキラしてる」じゃなくて、「これが欲しい」になる写真だった。
インスタに上げたら、いいねが3倍になった。
「急にセンスよくなった?」とDMが来た。
センスじゃない。ただ、使い方を理解しただけ。
でも黙っていた。
さつきには報告した。「先輩、わかりましたか」と言われた。
「まあね」と答えた。
29歳の意地というものがある。
この話には教訓が2つある。
ひとつ。「なんとなくかわいい」で買ったものは、必ず使い方まで調べること。
もうひとつ。22歳の後輩を舐めないこと。
さつきはあの後、うるちゅるポップシールの新作情報を教えてくれる存在になった。ランチに誘われることが増えた。先輩ポジションを取り戻すため、わたしは必死で文具知識をアップデートしている。
手帳を開くたびに、シールの光の当たり方を確認する。
あのとろけるような透明感を、29歳のわたしはまだ毎回少しだけ感動している。
使い方を知ってから、文具がもっと好きになった。
それだけは、本当の話だ。