スニーファーを夫に履かせるまでの、
長くて笑える道のり

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※登場人物は全て仮名です。

スニーファーとの出会い:テレビの前で「これだ」と思った

日曜の朝、洗濯物を畳みながらなんとなくつけていたテレビから、聞き慣れない言葉が飛び込んできた。

「スニーファー、ご存じですか?」

スニーカーとローファーを合体させたいいとこどりの靴らしい。

見た目はきちんとして見えるのに、履き心地はスニーカー並みという(まるで私の理想の夫みたいな靴だ)

外ではシャキッとして、中身はふわっと優しい。そんな都合のいい存在が靴の世界には実在するらしい。早く出会いたかった・・・

そしてその瞬間、私の脳裏に浮かんだのは自分の足のことではなく、玄関で死にかけている夫の革靴3足だった。

夫と革靴の、救いようのない関係

我が家の玄関には夫のビジネスシューズが3足ある。

黒のストレートチップ、茶色のウイングチップ、そしてどこで購入したのか夫本人も覚えていない謎の黒靴。この3足との戦いが、私のここ数年の隠れた苦労だ。

夫は革靴の手入れというものを、結婚当初から完全に他人事だと思っている。

「ねえ、靴磨いたほうがいいよ」

「え、靴って磨くの?」

「磨くの。クリーム塗ったりとか」

「へえ〜。なんで?」

この「なんで?」の一言で私の中の何かがぷつんと切れた記憶がある。

なんで?じゃない。革だから!!生き物の皮膚だから!!乾燥するから!!あなたも顔に保湿くらいするでしょう。……しないか、この人は。

カビとの遭遇、そして夫のリアクション

革靴問題が本格化したのは、梅雨明けに靴箱を開けた瞬間だった。

白いモヤが、茶色のウイングチップをふんわりと覆っていた。カビである。本格的なカビである。まるで靴がブルーチーズを目指しているかのような、堂々とした繁殖ぶりだった。

「ちょっと!靴にカビ生えてるよ!」

「え、どれどれ」 (夫、のっそり玄関へ)
「ほんとだ〜。なんか白い」

「なんか白い、じゃなくて。カビだよカビ。どうするの」

「コレ・・・拭けば取れる?」

取れません。

そんな甘いものではありません。私はその後1時間かけてアルコール消毒・陰干し・乾燥剤投入という工程をひとりでこなした。

夫はその間ソファでスマホゲームをしていた。この温度差、誰かに夫の体たらくを愚痴りたい。ぐぬぬ・・・

クリームの沼と、取り返しのつかない茶色い靴

カビ事件をきっかけに、私は一念発起して革靴の手入れを習得しようとした。

ホームセンターの靴磨きコーナーへ行くと、棚が1本まるまる靴クリームで埋まっていた。乳化性クリーム、油性クリーム、ワックス、コンディショナー、防水スプレー。これはスキンケア売り場か。

とりあえず「よく売れてます」のポップを信じて黒いクリームを購入。黒い靴に塗ったら悪くない仕上がりだったので気をよくし、次の週、勢いのまま茶色いウイングチップにも同じクリームを塗った。

茶色い靴が、少し黒くなった。

後から知ったのだが、色つきクリームは靴の色に合わせないといけないらしい。世界は広い。知らないことが多すぎる。

「なんか俺の靴、色変わった?」

「……気のせいじゃない?」

「いや変わった。なんか黒い茶色になってる」

「シックになったと思って」

「そういう問題?」(気づいてない!)

そういう問題ではなかったが、以降夫はその靴を「シックな茶色」と呼んでいる。順応性だけは高い男だ。

伝説の出張前夜事件

そして忘れもしない、夫に大事な商談がある出張の前夜の出来事だ。

張り切って靴を磨こうとクリームのフタをひねったら、固くて開かない。力任せにぐりっとやったら、ぱかっと外れてクリームが宙を舞い、夫の明日着る予定の白いワイシャツの胸元に、見事に着地した。

黒いシミが白いシャツに広がる。静止する私。振り返る夫。

「……何が起きた?」 「靴クリームが」 「俺のシャツに?」 「着地した」

深夜11時、私はコンビニへ走り、染み抜きシートを買って必死に拭いたが完全には取れず、夫は翌朝違うシャツで商談へ向かった。

結果として商談は成功したのだが・・・、何か気に入らない事があったのか?夫は帰宅するなり「やっぱりあのシャツのほうが運がいい」と言った。

黙れ。

テレビに戻る:スニーファーという救世主

そんな5年間の革靴地獄&ワイシャツ事件を走馬灯のように思い出しながら、私はテレビ画面の中のスニーファーをじっと見つめた。

テレビの中のリポーターが続ける。「スニーカーだとカジュアルすぎて服に合わないけれど、革靴だと足が疲れちゃう。そんな悩みを一気に解決してくれるのがこの一足なんです」

これは・・・、うちの夫のためにあるやつだ。

見た目はシュッとしたきれいめのローファーで、ソールに程よい厚みがあってスタイルもよく見える。なのに履き心地は完全にスニーカー。インソールのクッションもしっかりしていて、長時間歩いても足裏が痛くなりにくいという。

革靴だと疲れると毎回帰宅するたびに「足痛い足痛い」と言いながらソファに沈んでいく夫の顔が、頭にありありと浮かんだ。そのくせ手入れはしない。

疲れるのに手入れはしない。この矛盾した生き物に、神様がついに答えを用意してくれたのだと私は思った。

クリームもワックスも防水スプレーの選択肢迷いも、もういらない。カビが生える前に1時間格闘する週末も、シャツに黒いシミを作る深夜のコンビニダッシュも、全部終わりにできる。

スニーファーは靴ではない。我が家の玄関に訪れる、平和そのものだ。

夫への作戦:どう売り込むか

その夜、夕食後にさりげなく切り出した。

「ねえ、スニーファーって知ってる?」

「なにそれ、魚?」

「靴。スニーカーとローファーの中間みたいな」

「ふーん。なんで?それが気になるの?」

「あなたの革靴、そろそろ限界じゃない? 買い替えようよ」

「え、まだ履けるじゃん」

「カビ生えたやつだよ?」

「クリーム塗ってシックにしてもらったやつ?」

この男と暮らして何年経つのか。私は深呼吸をして、スマホで検索したスニーファーの画像を夫に見せた。

「これ。見た目はローファーみたいにきれいめなのに、履き心地はスニーカーなんだって。毎回帰ってきて足が痛いって言ってるじゃない」

「あ、それは確かに……」

「しかもソールに厚みがあるから脚もすっきり見えるらしいよ」

「へえ~」

「手入れもほぼいらない」

最後の一言で夫の目の色が変わった。そうか、この人に刺さるのはそこか。足が痛い、でも疲れる、でもなく、手入れがいらない。5年間の苦労が走馬灯のように流れたが、まあいい。刺さったならそれでいい。

「……買っていいよ」

買っていいよ、じゃない。あなたが買うんです。でも許可が出た。

エピローグ:玄関に届いた、革靴ゼロ時代の夜明け

数日後、箱に入ったメンズのスニーファーが届いた。

夫は箱を開けながら「おお、思ったよりかっこいい」と言い、その場でそのまま足を入れて、リビングをぐるっと一周した。

「なにこれ、めちゃくちゃ履きやすい」

「でしょ」

「クッションすごい。革靴と全然違う」

「だから言ったじゃない」

「なんで今まで革靴履いてたんだろ」

「そっちが手入れしないから私が苦労してたんでしょうが」

「え、手入れって俺がやるものだったの?」

やかましい。

でも翌朝、鏡の前でスニーファーを履いた自分の足元をちらっと見て「なんかスタイルよく見える気がする」とひとりごちながら出かけていく夫の後ろ姿を見て、まあいいか、と思った。

クリームもワックスも染み抜きシートも、もう買わなくていい。「足痛い」の帰宅報告も、きっと減るはずだ。玄関の靴箱が、革靴3足分だけ、ずいぶん平和になった。

同じ悩みを抱えている奥さんたちに、声を大にして言いたい。夫の靴を変えると、妻の週末が変わります。

 

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