
※登場人物は全て仮名です。
忘れもしない、去年の11月。
田中麻衣、32歳、会社員。趣味は寝ること。特技は寝ること。休日の過ごし方を聞かれたら「寝ます」と即答するタイプだ。
そんな私が昼休みに同僚の橋本さんのスマホを覗いたとき、画面には全身に針を刺されたような顔の女の人が仰向けに寝ている動画が流れていた。
「なにこれ」
「シャクティマットっていうんだって。TikTokでめっちゃ出てくる」
突起がびっしり並んだマットの上で、その女の人は目を瞑って、なぜか幸せそうな顔をしていた。
「……拷問じゃん」
「でも効くらしいよ?肩こりとか睡眠とか」
「橋本さん、騙されてるよ。絶対中世ヨーロッパの拷問道具だよ、それ」
私は断言した。
その3ヶ月後、自分のAmazonの購入履歴に「シャクティマット」という文字を発見するまでは。
話が少し脱線するけど、私が肩こりを自覚したのは中学2年のときだ。当時の担任に「田中、なんか老人みたいな歩き方してるぞ」と言われて、保健室の先生に肩を触られたら「すごいね、40代みたい」と笑われた。笑えなかった。あれから20年、私の肩はさらに進化して、今では整体師に「職業は石工ですか?」と聞かれるレベルになっている。
話を戻そう。
購入日時:12月14日、午前2時17分。
記憶を辿った。
あの夜、肩が岩みたいに固まっていた。湿布を2枚貼っても、首を回しても、夫に「ちょっと押してくれ」と頼んでも全然ダメで、「もう整体しかない」と思いながら検索し始めたのだった。
気づいたら、なぜかシャクティマットのレビュー欄を読んでいた。
「最初は痛いけど慣れると気持ちいい」 「寝落ちしました」 「毎日使ってます」 「肌がきれいになった気がする」
最後の一文で、ボタンを押した。
翌日の夜7時、玄関に段ボールが届いた。
封を開けた瞬間、思った。
「……やっぱり拷問グッズじゃん」
ピラミッド型の突起が縦横にびっしり並んでいる。色は紫。形は棺桶みたいな楕円形。どこをどう見ても「健康グッズ」ではなく「修行で使うもの」にしか見えなかった。
夫が覗き込んで言った。
「これ、なに?」
「マッサージグッズ」
「……本当に?」
「本当に」
説明書を読んだら「Tシャツの上から乗ることもできます」と書いてあったので、まずは服の上から試した。
乗った瞬間、脳に稲妻が走った。
5秒後、飛び起きた。
「無理無理無理無理無理」
夫がリビングからのそっと顔を出した。
「……大丈夫?」
「全然大丈夫じゃない」
3,800円だった。
捨てるには高い。でも乗るには痛い。
私はシャクティマットをクローゼットの隅に片付けて、その日はそのまま眠れずにスマホで「シャクティマット 嘘 痛い 効果ない」と検索した。出てきたのは「最初だけです」「1週間で変わります」という体験談ばかりだった。
ここで少し脱線する。
私、こういうことよくやる。
ホットヨガも3回で行かなくなった。腹筋ローラーは今もベッドの下に眠っている。プロテインは賞味期限が切れた。筋膜リリースのボールはいつのまにか猫のおもちゃになった。
つまり、三日坊主どころか一日坊主の前科がある。
でも今回は違った。
理由はシンプルで、3,800円が惜しかっただけだ。
話を戻そう。
翌日の夜、YouTubeで「シャクティマット 使い方」と検索した。
動画の中の人は素肌で乗っていた。
しかも気持ちよさそうな顔で。
コメント欄を読んだ。
「最初は痛いけど1分で慣れます」 「終わった後の感覚がやばい」 「もう手放せない」
「……嘘つけ」と思いながら、もう一度マットを引っ張り出した。
今度は素肌で乗った。
ものすごく痛かった。
30秒で諦めようとした。でも動画では「ここが踏ん張りどころ」と言っていたので、歯を食いしばった。
1分が経った。
あれ。
なんか、痛みが変わった気がする。
じんじん、という感覚に変わってきた。
2分経った頃には、背中全体がじんわり温かくなっていた。
そして10分後。
立ち上がれなかった。
気持ちよすぎて。
翌朝、会社に行ったら橋本さんがいた。
「橋本さん、シャクティマット使ってる?」
「あ、私買ったよ。毎朝乗ってる」
そうか。そういうことか。
あの昼休みにスマホを見ながら笑っていたのは、あの感覚を知っていたからなのか。
私が「拷問じゃん」と笑い飛ばしたとき、橋本さんは何も言わなかった。ただ「でも効くらしいよ」とだけ言って、スマホをしまった。
今思えば、あれは「あなたはまだわからないのね」という大人の余裕だったのかもしれない。
「……ごめん、3ヶ月前に拷問グッズって言って」
「あはは、私も最初そう思ったから」
橋本さんの肌が最近きれいだと思っていた。睡眠の話を聞いたら「最近よく眠れてる」と言っていた。全部、あのマットの話につながっていた。
あれから3ヶ月が経った。
私は今でも毎晩シャクティマットに乗っている。
夫も先週から乗り始めた。「痛い」と5秒で飛び起きたところまで、完全に私の再現だった。
ちなみに最初は紫の1サイズしか持っていなかったけれど、今は首専用のピロータイプも追加した。気づいたら沼にはまっていた。
SNSで流行る理由が、今ならわかる。
「試す前の自分」と「試した後の自分」の落差が大きすぎて、誰かに伝えたくなるんだ。あと「飛び起きた最初の5秒」の顔が動画映えする。
シャクティマットを調べているあなたは、今の私と同じ状態にいると思う。
「痛そうだけど気になる」
その直感、正しい。
拷問グッズだと思っていた私が言うから、間違いない。