
※登場人物は全て仮名です。
腕が、じわじわ伸びていた。
最初に気づいたのは、夫だった。
「なんか最近、スマホの持ち方変じゃない?」
食卓でみそ汁をすすりながら、夫がそう言った。
坂本哲也、51歳。
自分だって老眼なくせに、よく言う。
「変じゃないし」
私、坂本由紀子、48歳・事務員は即座に否定した。
でも否定しながら、スマホを顔から離していた。
無意識に。じわっと。
腕が、勝手に伸びていた。
そう。私の腕は、この2年でじわじわと進化していた。
スマホを持つ角度が、少しずつ遠くなっていた。
老眼の進行と腕の伸びが、完璧に比例していた。
ちなみに夫の哲也は、もう新聞を顔から40センチ離している。
人のことを言える立場ではない。
話は少し前に戻る。
去年の10月。 職場の休憩室で、私はお弁当を食べていた。
お気に入りの老眼鏡をかけながら。
100円ショップで買った、+2.0の老眼鏡。
フレームは茶色。レンズは大きい。
一言で表すなら「昭和の教頭先生」スタイル。
自分では「実用的でいい」と思っていた。
思っていた、のだが。
後輩の佐藤さんが入ってきた瞬間、運命は変わった。
佐藤さんは26歳。前髪をいつもふんわり巻いている。
老眼とは無縁の宇宙に生きている。
「坂本さん、メガネ変えたんですか?」
そう言いながら、私の顔をじっと見た。
「これ……老眼鏡なの」
言った瞬間、お互いに固まった。
佐藤さんは笑顔のまま0.5秒だけ停止した。
私は逃げ場を求めて、から揚げを口に詰め込んだ。
その日のから揚げは、味がしなかった。
ここで少し脱線する。
私が最初に老眼鏡を買ったのは、45歳の誕生日の翌日だった。
近くの薬局で、試しにかけてみたら、棚の文字がくっきり見えた。
感動して泣きそうになった。
値段は110円だった。
消費税込みで110円。
老眼鏡に感動した私の人生とは何だったのか。
そんなことを考えながら過ごした3年間、私は「老眼鏡とはそういうもの」だと信じ込んでいた。
見えれば正義。デザインは二の次。
あの佐藤さんの顔を見るまでは。
その夜、私は布団をかぶってスマホを開いた。
夫には「もう寝る」と言った。
嘘だった。
検索した。「老眼鏡 おしゃれ 40代」
出てきた画像を見て、目を疑った。
ボストン型、スクエア型、ハーフリム。
モデルがかけると、どれも「デキる先輩」の雰囲気。
老眼鏡に見えない。まったく見えない。
「なにこれ」
思わず声に出た。
夫が隣で「ん?」と言った。
「なんでもない」と即答した。
スクロールを続けていると、あるキーワードが目に飛び込んできた。
「UVカット ブルーライトカット 老眼鏡」
なんだそれ、と思った。
クリックした。
画面の向こうで、私の常識が静かに崩れ始めた。
口コミを読んだ。
40代・50代の女性たちが、次々と書いていた。
「パソコン仕事で目の奥がズキズキしてたけど、これにしてから全然違う」
「屋外でも老眼鏡のままでいられるのが最高」
「職場でかけてても、普通のメガネにしか見えないと言われた」
ズキズキ、という言葉で止まった。
目の奥のズキズキ。
私も毎日感じていた。
データ入力でパソコンを見続けると、夕方には目の奥に鈍い痛みが来る。
「仕事終わりのご褒美みたいなもの」と思って、ずっと放置していた。
ちなみに去年の健康診断で視力が落ちていた。
医者に「目を休めてください」と言われた。
「はい」と答えて、翌日から残業した。
話を戻す。
ブルーライトカットは、パソコン画面から出る光を和らげる。
UVカットは、外出時の紫外線を防ぐ。
この二つが一枚のレンズに入っている。
しかも、外から見ると普通のおしゃれなメガネ。
「なんで誰も教えてくれなかったの」
夫が「ん?」と言った。
「なんでもない」と即答した。2回目だった。
翌朝の通勤電車。
私はスマホで眼鏡チェーンを調べていた。
UVカット・ブルーライトカット付きのリーディンググラス。
おしゃれなフレーム。
老眼鏡に見えないデザイン。
調べながら、ふと気づいた。
スマホを持つ腕が、伸びていた。
電車の窓ガラスに、うっすら自分の姿が映っていた。
腕が、微妙に伸びていた。
窓の外には、秋の住宅街が流れていた。
電線に鳥が止まっていた。
どうでもいい情報だが、スズメだった。
私は窓の中の自分を、しばらく見つめた。
そして静かに思った。
もう、誰にも教頭先生とは言わせない。
新しい老眼鏡は、細いゴールドフレームのボストン型にした。
ブルーライトカット40%。UVカット99%。
度数は+2.0。中身は完全に昭和の教頭先生のままだが、見た目は別人だった。
職場でかけた初日、佐藤さんが言った。
「坂本さん、メガネ変えましたよね?すごくいいですね」
ありがとう、佐藤さん。
パソコン仕事の多い日でも、夕方の目の奥の痛みが減った気がする。
気がする、というのは、まだ1ヶ月しかたっていないから。
でも、「なんか違う」という感覚は確かにある。
夫の哲也には「似合ってるじゃん」と言われた。
お世辞でも、素直に受け取ることにした。
48歳になってやっとできた、大人の技術だ。
100円ショップの老眼鏡は、引き出しの奥にしまった。
捨てるのは忍びない。
110円分の情が、まだそこにある。
UVカット&ブルーライトカット老眼鏡!黒縁で目元が若々しいデザイン